呼吸器・感染症内科学講座

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スタッフブログ

後方腕組彼氏面(こうほううでくみかれしづら)

2023年7月25日

通勤で1時間運転するが運転中は眠くなるためラジオを聞くことが多い。
音楽は単調で眠くなるので情報番組をきく。それもAMラジオ。おじさんである。
NHKラジオで後方腕組彼氏面という言葉を聞いた。
これは好きな子の後ろで腕組みをして、彼氏面をしている男の人のことなのだが、
これがどういう行動かというと、自分が推しているアイドルがみんなの知るところとなったときに「○○ちゃんは昔からそうだった」「おれは前から知っているけど」みたいな
イラッとするマウントをとる人のことを「後方腕組彼氏面」というのだそうだ。

なるほど最近はそういう表現があるのだと知った。
そしてその週末、呼吸器学会、肺がん学会地方会のある高松へ赴いた。

学会会場で松田先生は活発な議論をおこなうべく、積極的にマイクの前に立ち質問をしていた。同じ会場にいた自分はどうだっただろうか。
会場の後ろで腕組みして「そんなのオレ知っているけど」みたいな顔をして、
松田先生の質問を聞いている。
自分の姿は、まさに「後方腕組彼氏面」じゃないか。
自分を恥じた。
いくつになっても質問して学会に参加した足跡は残しておこうと反省した。

空耳アワー

2023年5月2日

タモリ倶楽部名物の空耳アワーが終了し話題になっているところではあるが、自分も空耳アワーで泡を食ったので恥を忍んで書こう。
もはや何回打ったかわからぬ新型コロナワクチンだが、感染制御部所属の私の仕事は希望する職員、学生にワクチンを打つ仕事。
職域接種として3つあるキャンパスに出向いてワクチン打ってきた。
その心意気や撃ちてし止まむであるが、空回りしてしまったのである。

予診医師として予診票チェックに慣れてくると1人1分で終わるのだが、予診を取っていると結構な割合で留学生が紛れてくるのである。
そして時々英語の予診票が提出されるのである。
予診票で問題がなければ「OK」というだけでよい。
ただ英語が苦手なわたしはそれだけで血圧と心拍数が15くらい上がる
なかには留学生が日本語の問診票を提出してくることがあり、これには2パターンがあるので要注意なのである。
長年日本にいて日本語が大変堪能であるため自分で予診票を記入した場合。これは対して問題にはならぬ。
警戒すべきは日本語がまだ拙いため友人や職員が日本語の問診表を記載してくれた場合である。
こちらは、この留学生は日本語が大丈夫だなと思いきや、全く話せぬという事態に遭遇する。
そのギャップに英語嫌いの私の心拍数と血圧はさらに10くらいあがる。
ましてや予診票の「今日体に具合の悪いところわるいところがありますか?」に「はい」のところに○をつけている。
そうなると予診医師の私は「どこが調子悪いの?」「日本語わかる?」と問い返すも
「No 日本語ダメ~」と言われる。
「How are you feeling ? Is there anything wrong?」と聞いてはみるが、
帰ってくる返事は「ベンピ、ベンピ」
私「便秘、ノープロブレム 」とどや顔で答えるが相手は怪訝な顔をされる。
隣席におられた留学帰りの予診医の先生から「Back pain といってるよ」とさらっと助け船。
私がベンピと聞こえていたのはBack painであった。
以後の対応は留学帰りの先生にお任せした。とんだ空耳アワーである。
私の血圧は恥ずかしさのあまり200mmHgを超えたかもしれない。

それ以来予診医として派遣される場合は英語が堪能な国際交流室の事務職員の所在をかならず確認して予診医の仕事に就くようになったことはいうまでもない。
こんなことだからいつまでたっても英語が苦手なんだろうなと自分の弱さを再認識した。

肺年齢の思い出

2022年4月20日

2月は亡き恩師の命日である。
私みたいな凡人を一応呼吸器内科医にしてくれて感謝だが、恩師には何も恩返しができなかった。亡き恩師を偲んで少し思い出を記そうと思う。
いまや呼吸機能検査をすると結果用紙のほぼすべてに肺年齢が記載されている。
患者さんに「1秒率が70%切っているからタバコで肺が痛んでいますよ」と説明してもピンと来ないが、検査用紙の「肺年齢75歳(+20歳)」の表示をみるとだいたいは「えっ?」となる。このように肺年齢のインパクトは結構強い。

思い起こせば、亡き恩師はコーヒーを片手によくふらっと医局にやってきていた。
空いた椅子に座っては他愛もないことをぼやいて、また教授室に帰っていくのが常であった。
医局員はそんな教授のぼやきを聞くのが疎ましくなり、空いた椅子に鞄や上着をおいて教授が椅子に座り込んで長居しないように意地悪をしていた。
今思うともっと優しくしておけばよかったと悔やまれる。

とある日、またふらっと医局にやってきた。
当時任天堂DSの脳年齢が流行っていた。
教授「脳年齢流行ってるだろ。プーッと息を吐いて肺年齢がわかったら流行るかな?」と
一言。
医局員「また馬鹿なこといってる」とほとんど相手にせず。
そこがわたしたちが凡人たる所以。
いまやスパイロメータの結果用紙のほぼ全てに肺年齢がでるようになっている。
肺年齢は一部誤解を招く患者集団があることは指摘されているが、患者さんにとって
肺年齢のインパクトは絶大である。やはり亡き恩師は偉大であった。
同期たちと恩師の思い出を語れる日を夢見て・・頑張ろう。

秋の帰り道

2020年12月4日

10月に母校に講義に行った。以前いた医局の教授が「たまにはこちらに戻ってくる機会があるものいいだろう」と非常勤講師に任命してもらっているのである。
コロナ禍でリモート講義かと思っていたが、対面講義に戻っており母校の教室にいくことができた。
5年前の教室は「闇金ウシジマくん」など漫画が窓際に山積みでみんな講義なんぞ聞いてなかったが、最近の教室はきれいである。まず窓際に漫画がない。
そして、もらい手がなく放置された講義プリントの山がない。講義資料は事前にサーバーにアップロードして学生はそれをダウンロードする形である。
教室も無機質な空間に変わり果てたものである。
講義に先立ちPCをつないでプロジェクターに接続しようにも機器が更新されていて、うまくいかない。講義時間はすでに始まっている。
おまけに母校は50分授業に変更されており、5分のロスは結構痛い。 昔なら前に座っていた学生がでてきて助けてくれたものだが、今年からはコロナ禍の影響で学生は全席指定席。
前に座っている学生が講義に熱心な学生とは限らない。誰も助けに来てくれない。

昔の講義の思い出を語っても仕方ないが、学生時代の講義といえば、スライド映写機である。
まず学生は教授が持ってきた小さなスライドフィルムを映写機のドーナッツ型のカートリッジに入れる作業をしたものである。 たいてい上下逆さまに入れたり、スライドの順番を間違えてつめてしまったりしてまず怒られる。 さらにスライド映写機は映画館の映写機のごとく教室後ろに鎮座しているので、教授が「スライド、次!」といえばスライドを次に送る作業を誰かが行わなくてはいけないのである。 しかし、大抵この係を担う学生が寝てしまい教授にさらに怒られる。
教員と学生が一緒にならないと講義ができなかった時代である。
それがいまや全てセルフ作業。
合理化といえばきこえはいいが学生と接点がなくなったのは寂しい気がする。

結局、PCを接続できず右往左往するわたしを見かねた学生が教務課に連絡したようで、教務課の職員がきてくれてPCを接続してくれた。
講義がおわり、母校での孤独感とノスタルジーに浸った私はある場所へクルマを走らせた。 久しくお参りできなかった、亡き恩師の墓前に立ち寄った。
「あのころはいろいろ頼まれても逃げ回ってごめんなさい。医局員と接点持ちたくてもみんなに距離とられてさみしかったですよね。何だかね、いまその気持ちがわかりますよ」とそっと心につぶやいて、帰路についた。

スライド映写機
APSR 2019 Report from Hanoi 大石景士

2019年11月28日

11/13(水曜日)
福岡空港からベトナムのハノイまではフライト時間4時間程度と比較的短く、あっという間にハノイに到着しました。空港にはたくさんのAPSRのボランティアの方たち(ハノイ大学の医学部生でした)が黄色のポロシャツで待ってくれており、ホテルまでのタクシーのチャーター・案内をしていただきました。
ホテルは、ハノイでナンバーワンの格式高いホテルであり、過去にはアウン・サン・スー・チーさんやカンボジアの大統領が宿泊したこともある立派なホテルでした。
午後三時と早めにホテルに到着でき、疲れも少なかったため、松田先生ガイドのもと、世界遺産のタンロン遺跡へ向かいました。ここは過去のベトナム王朝の王宮が置かれていた城址であり、皇帝の宮殿跡には今でも石段や立派な門や建物が残っていました。観光客のみならず、地元の若いカップルや女性などにもインスタ映えスポットとして人気であり、お洒落な写真をたくさん撮っている人たちでも賑わっていました。そんな中、インスタ女子に負けじと松田先生が艷やかなポージングを決めてくれました。また、この遺跡内にはベトナム戦争時に軍部が作戦会議として使用していた地下会議室も当時の雰囲気そのままで保存されており、ベトナム戦争の歴史を垣間見ることができました。
夕食は、「Quan An Ngon」というレストランで本場のベトナムフードに舌鼓を打ちました。生春巻き、パパイヤサラダや魚介類などどれも美味しかったのですが、特にバインセオという、ベトナム風クレープ?がとても美味でした。これは豚肉、野菜などを手巻きの要領で生春巻の皮のような生地で包んで甘酢タレをつけてパクっといただく料理です。ここでも松田先生が率先して皆さんのバインセオを作ってくれました。

11/14(木曜日)
山口大学呼吸器・感染症内科では恒例となっている『みんなでそろって朝ごはん』ですが、今回も朝7時に集合してみんなで席に付きました。教授おすすめであるフォーを2杯ずつ食べて朝から十分エネルギーを補充して学会会場へ向かいました。
今回のAPSRでは、松永教授はCentral Congress CommitteeのChairpersonや、COPDのHeads of Assembliesを務められており、初日の午前中から多数の会議に出席され、午後にもテープカットセレモニーへの参加など多忙を極めていました。なお、濱田先生がAPSR Travel Awardを、私がJRS Young Investigator Awardを受賞したため、学会会場のAwardの看板に写真入りで紹介していただいてあり、嬉しく感じました。
夕方からはOpening Ceremonyが開催され、私達も参加しました。歌手による熱唱、アオザイ衣装でのベトナム舞踊や楽器演奏、少年少女のダンスなどが盛大に行われ、大変盛り上がりました。その後、APSR2019 Committeeの方々が壇上に上がり(もちろん松永教授もです!)、ベトナム保健大臣の主賓挨拶などが行われました。このような盛大なセレモニーは国際学会ならではだと感じました。その後、Welcome Receptionで夕食を取り、ホテルへ戻りました。

11/15(金曜日)
本日は、松永教授が3つのセッションで座長を務められ、COPDのシンポジウムで講演をされました。COPDのシンポジウムでは、先日Int J COPDにpublishされた”Time to Revise COPD Treatment Algorithm”の内容も紹介されながらCOPDのPersonalized managementについて多くの知見を述べられました。シンポジウムの後には、Time to Revise COPD Treatment Algorithm”の共著者であるスペインのMark Miravitlles先生とも再会できました。論文化にあたり多岐にわたりご指導を賜ったことに関して改めて感謝の意をお伝えすることができて良かったです。
平野先生は、”Relationship between physical inactivity and white mater microstructure disorder in COPD”という演題をoral 発表されました。濱田先生は、”The relevance between small airway disease and lung blood perfusion in COPD: A preliminary study”という演題をoral発表されました。どちらの演題も会場内から多数質問が挙がりましたが、毅然とした態度で質問に答えていました。私は、JRS Young Investigator Awardのsessionで”Imaging biomarkers of the small airways disease in asthmatics”という演題のoral発表を行いました。日本赤十字医療センターの久世先生、群馬大学の山口先生とともにYIAを受賞することができ、座長や聴衆の方から今後の研究に関する示唆に富む意見をいただけたことは大変光栄でした。
夜には松永教授と韓国のChin Kook Rhee先生が座長を努められたAsian COPD expert Seminar 2019に参加しました。お二人の座長の先生の講演に続き、韓国、台湾のCOPD治療の現況に関して各国Expertの先生の講演を聴講しました。3つの国別のCOPD診療の現況を理解することができ、大変勉強になりました。

11/16(土曜日)
本日は松田先生のoral発表(演題名“Fractional exhaled nitric oxide in allergic bronchopulmonary mycosis”)がありました。今回のAPSRは松田先生にとって初めての国際学会であり、oral発表と判明してから多くの準備を重ねていました。ベトナム到着後に美味しいフォーを食べても、世界遺産でポージングをしても、発表に対する緊張感が常に心に重くのしかかっていたようでしたが、発表時には堂々と発表され、質問にも可能な限り答えていました。私自身の初めての国際学会発表の時とは比較にならないぐらい立派な所作でした。また、本日も平野先生はposter発表“Association between patient reported outcome measures and physical activity in obstructive respiratory disease”とoral発表“Investigation of factors that related to the variability of fractional exhaled nitric oxide”と2つの発表があり、会場内を忙しく動き回っていました。私は”Functional small airways disease derived from parametric response mapping in asthma”という演題名でoral発表を行いました。4つの質問を座長・聴衆からいただき、2つは回答できましたが、残りの2つは回答できず、松永教授に助けていただきました。自分の英語力・プレゼンテーション能力をもっと磨く必要性を今回も実感いたしました。
夜にはGala dinnerがあり、松永教授、濱田先生、私が参加しました。このGala dinnerでは、Opening Ceremonyとはまた異なったベトナム舞踊や楽器演奏を鑑賞できました。続いて各Awardの授与式がありました。濱田先生と私もそれぞれ登壇し表彰して頂きました。私のJRS Young Investigator Awardのプレゼンターは徳島大学の西岡教授であり、表彰状とともにありがたい激励のお言葉を頂きました。壇上で浴びたスポットライトはとても眩しく、(こんなにスポットライトを浴びたのは結婚式以来だな…)としみじみ思いました。眩しい光の中で会場を見渡したところ、満面の笑顔の松永教授を見つけることができ、とても嬉しく感じました。
この学会中に多数のシンポジウムを聴講しましたが、山口大学のメンバーは皆多くの質問をしていました。今回のAPSRは雰囲気が非常にInteractiveであり、とてもAttractiveな学会でした。食事も美味しく、気づいたらフォーを合計10杯食べていました。フォーは朝・昼・夜と、いつ食べてもお腹に優しく大好きになりました。最後になりますが、5日間の留守の間、多くの皆様に御迷惑をお掛けしました。ハノイで”Yamaguchi University”を十分アピールすることができたのではないかと感じますが、今回の国際学会で学んだ経験を引き続き臨床・研究・教育に生かし、日々精進していく所存です。貴重な経験をさせていただき、誠にありがとうございました。

写真集 in APSR 2019
『写真集 in APSR 2019』New Window

教授はいたほうがいい?

2019年11月08日

European Respiratory Society Annual Congress(ERS)がマドリッドであった。
そう、教授がいない。
「教授元気で留守がいい」
そう言い続けて3年。
教授がいないと医局の空気も清らかで深呼吸すらうまく感じる。

ところが、今回はそうはいえなくなってきた。准教授もERSにいってしまったので
教授が行う業務がすべてわたしに降りかかってきた。
ポリクリ学生の総括、感染対策委員会の開催代行、感染対策リンクスタッフ会の代行、
とどめは教授回診の代行。
患者さんもペーペーの私の総回診なんか受けたところでなんのありがたみも感じまい。
教授があまりに申し送りなく仕事を押しつけて旅立っていったので
「この野郎、誰が留守番してるから、海外学会いけると思ってんだよ。」
と心のなかで毒づいたが、いままで「教授元気で留守がいい」と言い続けていたので、
表だって文句は言えない。

そういえば、いままで「教授元気で留守がいい」と言い続けても、なにも注意されなかった。
普通の医局なら打ち首獄門であろう。
しかし今回はその言葉を言い続けたために、墓穴をほってしまい、狡猾な教授のワナにはめられてしまった感がある。
だからいっておこう、やはり教授はいたほうがいい。
しかし今後は「時間、距離、遮蔽の3原則」は守っておこと心に決めた。

倒れた・・・

2019年11月01日

ブログが途切れているので不審に思われている方もおられるだろう。
決してクビになったわけではない。病気をしたのである。
主病名:急性喉頭蓋炎。今年の国家試験にも出題された疾患。
医者になって約20年。自らもいままで1例しか診療したことがない疾患。
まさか自分が・・・である。
悪寒がして38度あったのでインフルエンザか?と思ったがインフルエンザの検査は陰性。
はて、のどは痛いが扁桃腺は腫れていない。念のため宇部市内で開業している
同級生のもとへ診察に向かうが、
彼も「のどは腫れてないね。どこから熱が出ているのだろう?」と。
今思えば、同級生は外科医なのでわかるわけがない。
あまりにきつくて帰宅する元気もなく、その日は大学近所のホテルに泊まった。
夕食はのどの痛みでうどんすらまともに食べられない。
いま思うと、肉ワカメうどんネギ増し増しが最後の晩餐になるところであった。
明け方にみずからのよだれで目覚め、息を吸うときにのどからヒューと聞こえだした。
これは急性喉頭蓋炎では? もしかしてやばいのでは?と
孔子は四十にして惑わずといったが、いまだ人生に迷ってばかりの自分が、
自らつけた診断後の行動に迷いはなかった。
直ちに大学に電話をして当直の上原先生を叩き起こし、耳鼻科当直医に連絡を
とって診察してもらった。我が診断に狂いはなかった。
耳鼻科医は引きつった顔で告げた。
「急性喉頭蓋炎です。いまから救急病棟へいきます。最低3日間は間挿管します」
車椅子に乗せられ急遽救急病棟へ。
「挿管するけど入らなかったら気管切開ね」と十分なインフォームドコンセントされて挿管された。
皮肉にも呼吸器内科医が人工呼吸器につながれる羽目なった。
山口大学に赴任して3年半。3回目の入院である。
学内では仕事で有名になるよりも頻回の入院の方で有名になってしまった。

そこそこの年齢になり年功序列でなんとなく偉そうにはしているが、
今後は健康序列が大事な年になってきたなと実感した。
無理をせぬようにお世話になった山口大学病院に恩返しをしようと思う。

裏APSR記

2018年12月18日

大石先生がアジア太平洋呼吸器学会(APSR)での体験を詳細にブログに挙げているが、
よほど教授との二人きりの5日間はストレスフルだったのだろう。
ブログにアップされた写真には大石先生の引きつった笑顔が散見される。

本ブログはお約束のように教授不在時に更新されるという性質をもつ。
海外学会教授不在シリーズは「教授元気で留守がいい」「今日も元気だ、教授がいない」の過去ブログをご参照いただければ幸いである。

海外学会があると教授不在シリーズが毎回でてくるので、皆さんはもう辟易かもしれないが「男はつらいよ」の寅さん映画シリーズのようなものと思っていただきたい。

何度も書いてるかもしれないが教授がいないと肩の荷が下りたようで気も心も軽いである。
教授不在期間中、教授秘書は定時で帰宅し、医療クラークは年休を取られた。
さらに医局員は日頃エレベータ待ちの廊下で教授に遭遇するリスクを避けるため非常階段から逃げるように帰るのだが、この日ばかりは堂々とエレベータで帰った。それも早めに。

かつてタワーレコードは「No music No life」といったが、教授不在時のわれわれは
「No professor No work」である。

大石先生は優秀で根がまじめなので長文のブログになっているがわたしのように一度ハメを外して「医局員はつらいよ。台湾旅情シリーズ」として書いてほしいものである。

ただ日頃多忙な教授にとってAPSRはよほどリフレッシュになったのであろう
帰国後初めての新患紹介カンファランスでは医局員がみな敬服するくらい意見が冴えておられた。
自己研鑽を怠る自分を少し反省した。

APSR 2018 大石景士

2018年12月5日

2018年11月29日から12月2日まで台湾の台北市でAPSR(Asian Pacific Society of Respirology) 2018 congressが開催され、松永教授と参加してきました。学会全体の参加者は3200名以上と昨年の1.5倍ほどだったようでどのsessionも大盛況でした。

私は今回Poster sessionで"A new parallel two-step algorithm for the treatment of COPD"、Oral sessionで"The prevalence and clinical characteristics of T2-low and T2-high endotype of severe uncontrolled asthma distinguished by combining type-2 biomarkers"と、2つの演題を発表する機会をいただきました。 Poster sessionの発表は現在投稿中であるCOPD治療アプローチのproposalの内容であり、複数の先生から質問・意見を頂くことができました。中でもどのような症例にICS add-onを行うかについての質問が多く、世界はどのように考えているか、日本・我々の考え方とどのような差異があるかについて改めて認識することができました。 Oral sessionではコントロール不良重症喘息患者のT2-low/highサブタイプ、コントロール不良因子の解析結果を発表しました。座長は喘息・COPD領域の世界的な権威であるImperial College LondonのKian Fan Chung教授でした。国際学会での初めてのOral presentationであったため、とても緊張しましたが内容はなんとか伝わった様子で安心しました。 また、Kian Fan Chung教授からも今後論文作成の際に参考となるような貴重な質問・意見をいただくことができました。質疑応答の際には松永教授に助けていただき感謝するとともに、自分のspeaking能力の低さを改めて痛感する結果となりました(汗)。

自分の発表以外ではPlenary lectureやSymposium(喘息、COPD、気管支鏡インターベンションなど) などに参加しました。アジア・世界の現在の潮流として、どんなunmet needsがあり、どのような方向性に今後向かっていくのかということを、山口大学の現在の臨床・研究の立ち位置と比較することを意識しながら聴講しました。 なお、松永教授はCentral Congress CommitteeのChair-ElectならびにCOPDのAssembly Headであり、APSR Assembly Meetingの際には進行役として様々な議題の提案・調整を行っていました。また、COPD Symposiumの座長、Oral sessionの座長でも大車輪の活躍をされていました。 なお、現在投稿中の論文のco-authorである、スペインのHospital Universitari Vall d’Hebronの Mark Miravitlles先生ともお会いする機会があり、直接感謝の意を伝えることができました。

台湾への移動についてですが、福岡空港からのフライト時間は2時間30分と短く、時差も1時間とほとんどなく、移動の疲れを感じることなくホテルまで移動することができました。また、当初予定していたホテルがオーバーブッキングとなり結果的に5つ星ホテルへとグレードアップして頂くことになり、快適かつホスピタリティあるホテルで過ごすことができました。 台湾の食事は何を食べても美味しく、特に日本でも有名な鼎泰豊へは合計3回も通い詰めることになりました。小籠包、餃子、焼売、炒飯、酸辣湯麺など、どれも美味しかったのですが、中でもシロキクラゲの4宝デザートという冷製の甘いスープが絶品でした。 鼎泰豊以外にも、台湾各地の茶葉を取り揃えている永心鳳茶というカフェで冷茶をワイングラスで提供されながら、牛肉片米粉湯(牛肉スープ麺)を食べ、優雅な時間を過ごすことができました。市井にある四方阿九魯肉飯という食堂では、現地の人達に混じって魯肉飯と饂飩湯(ワンタンスープ)を美味しくいただきました(二人で300円!)。なお、最終日には『やっぱりラーメンが食べたい!』という教授の希望もあり、一蘭台北店で最後のシメをいただきました(笑い)。

観光する時間もあり、松永教授と国立故宮博物院、総統府、国軍歴史博物館、国立台湾博物館、龍山寺へ行くことができました。台湾の歴史、特に、国としての成り立ちの過程や近代化における中国・日本との関わりを深く知ることができました。 特に、明治から昭和の時代には、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造といった著名人のみならず、非常に多くの日本人が社会衛生、教育、治水、農業開発、鉄道・道路などのインフラ整備など台湾の近代化に関わっていることを見知ることができました。総統府で日本語ガイドをしてくれたおばあさんが、『日本の50年の教育、とても感謝。』という言葉を繰り返し何度も口にされていたのが印象的でした。

また、朝早くに散歩をしていると、公園で非常に沢山の人が太極拳や体操をしていました。私も学会中は普段よりもたくさん歩いたのですが(10000-16000歩)、台湾人の健康意識の高さには負けてしまうな、と感じました。

学会中には松永教授の誕生日を祝う機会もあり、盛りだくさんのイベントだらけでしたが、松永教授の学会バッジの国籍が”Japan”ではなく、“Jordan“となっていた以外に大きなトラブルはなく、肉体的・精神的なストレスは皆無で終日過ごすことができました。 最後になりますが、5日間留守にすることになり、多くの皆様に御迷惑をお掛けしました。今回の国際学会で学んだ経験を山口県での呼吸器診療に生かし、日々精進していく所存です。貴重な経験をさせていただき、誠にありがとうございました。

松永教授 写真集 in APSR 2018
『写真集 in APSR 2018』New Window

感染症対策講習会第2部

2018年12月3日

わたしは立場上年2回の感染対策講習会を企画しなくてはいけない立場にある。
1回目は自分が喋るにしても2回目はさすがに職員も食傷気味なので当院では2回目は外部講師の先生にお願いをしている。
ただし予算は少ないので近所から呼ぶしかない。
今回は広島大学の感染症科の梶原先生にお願いをした。
梶原先生は感染症学会西日本地方会で行われたICD講習会の演者に当たっており忙しいことはわかっていた。
しかし私には「きっと山口大学に講演に来てくれる」という勝算があった

さる7月に感染対策中四国ブロック研修会を山口で主催した。
その際レセプションを行ったのだが、「山口を堪能する」のコンセプトのもと、獺祭を代表とする日本酒飲み比べや山口特産品を使った料理をお願いしていた。
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で有名になった瓦そばももちろんメニューに入れて貰っていた。
ところがまじめな梶原先生は挨拶回りをしている間に自分の席が他のヒトに乗っ取られ、そのテーブルの瓦そばが食べ尽くされ、とうとう食べることができなかったのである。
その事情を知っているわたしは「謝金は些少しかでませんが・・・前回食べることが叶わなかった瓦そばをごちそうしましょう」と講演のお願いメールに追記し、快諾していただいた。要は瓦そばで釣ったのである。

感染対策講習会ではインフルエンザと風疹について講演いただいたが、内容も大変わかりやすかったと好評であった。

講演終了後に瓦そばを食べに行ったが、本当に瓦そばだけでは申し訳ないのでふぐ刺しも頼んでおいた。今回はプーチン大統領も飲んだ日本酒「東洋美人」を振る舞い、山口特産品でおもてなしができた。山口には酒の肴となる素材が多いが、やはり最高の酒の肴は「教授ネタ」である。
「うちの教授はさ~」で始まる愚痴は最高の酒の肴である。
愚痴るのは親しみの表れであり、大いにお互いの教授自慢をして憂さを晴らして感染対策講習会第2部は楽しく終わった。

鬼が笑う

2018年12月3日

先日、次年度のわが呼吸器感染症内科に入局を決めた筑本先生が挨拶にきた。
これはこれでめでたいことである。
その後、教授が医局の部屋にやってきた。これはこれで医局員は悲しむべきことである。
「またなにか仕事を振られるのではないか?」瞬時にわれわれは警戒モードに入る。

末竹先生は途端にうつむく。わかりやすい男である。
大石先生は大画面のパソコンモニターの影にサッと隠れる。
わたしは元々医局の最も死角になる場所に机を陣取っている。

我々の警戒をよそに教授は「来年筑本先生がきて、医局の机たりるかぁ?」と一言。
「来年のことを言えば鬼が笑う」というが、教授は大いに笑っていた。

「あれは3年前~?」とちあきなおみも歌う3年前、4人で始まった呼吸器感染症内科はこぢんまりとした零細医局であった。
その後の教授は八面六臂の活躍でいろんな場で「喝采」を博された。
(このくだりが分かるヒトはaround 50である)

おかげで私たち医局員にも大いに活躍の場(=おしごと)を与えてくれたのである。
なので笑顔の教授がやってくると過剰なまでに警戒するのである。

鬼は通常厄災をもたらすものと思われているが、日本の一部の地域には鬼を善的にとらえ、畏怖の念で見ている例もあるらしい。

わたしにはどちらの姿も教授にオーバーラップする・・・。

山口フェローシップセミナー

2018年11月14日

さる9月1日~2日に山口フェローシップセミナーが行われた。
7年前に山口赤十字病院の國近尚美先生が呼吸器専門医の少ない山口県で少しでも若手に呼吸器内科に興味を持って貰おうと初期研修医向けのセミナーを開いたのが始まりという。
年2回開催なので通算14回続いているセミナーである。

このセミナーは夏と冬に行われるのだが、夏は1泊2日の泊まりがけのセミナーである。
まずは宇部医療センターの会議室で座学や実習を行い、夕方には近所のホテルに移動して宴会、そして二次会。翌日は二日酔いと戦いながら、朝から座学を行い昼に終了である。
当科に入局してきた末竹先生、大畑先生、濱田先生もこのセミナーを受講して呼吸器内科学に興味を持ち、わが呼吸器感染症内科に入局された。
決して酒の席で籠絡されて入局したわけではないことは彼らの名誉のために言っておこう。

そして宿泊するホテルには温泉があるだが、講師陣のおじさんたちは温泉が大好きである。
座学終了から宴会までは移動時間を含め30分ほどしかないのだが、そんな短時間でも温泉に入って宴会会場に浴衣姿で現れるのは決まっておじさんだけである。
このおじさんたちは温泉の湯船に入ると決まって「う~」とか「あ~」とか唸るのである。そして唸る音量は偉い人ほど大きくなる傾向にある。
それだけ偉くなると遠慮がなくなってくるのだろう。
わたしも温泉に入るときに「う~」と唸るようになったのいつ頃だっただろうか。
偉くはないが、遠慮がなくなってきたのだろう。自戒したいところである。

そして宴会であるが、うちの教授はアルコールが入ると必ずシメのラーメンがルーティーンなのである。
胃袋が弱い私はその時間帯になる前に退散するのであるがこれも私なりの自分の身を守る戦略である。
やはり今回も教授は午前2時に「ラーメン食いに行くぞ」と叫んだらしい。
しかし温泉ホテルのまわりにはラーメン屋はなく、医局員が諫めても「ラーメン!」というので仕方なく大石先生が自販機のカップラーメンを買ってなんとか場を納めたらしい。

まだ温泉で「う~」とか「あ~」とか唸らない若くて思慮深い研修医のみなさん。
一度フェローシップセミナーを受講してみてはいかがでしょうか?

「道の日の出来事」

2018年9月4日

通勤途中のラジオで「きょう8月10日は道の日です」と言っていた。
1920年8月10日に日本で最初の道路整備計画が立てられたからだという。
「道」の意味には文字通り「人の通行するところ」「通り道」の意味があるが、「道徳」、「武士道」のように、人の守るべき義理や教えなどの意味もある。
わたしは「裏道」、「脇道」、「抜け道」が好きであるが、そんなの生き方は教授から見たら「外道」そのものだろう。
そんな道の日の8月10日に新山口で医局説明会を行った。忙しい中、下関、岩国、徳山からと遠方から研修医に参加してもらった。
参加者がいなかったらどうしようという思いは杞憂に終わり、ざっくばらんに食事会が始まった。当科の特徴としてアルコールが入る会食は冗長になりがちなのであるが、教授には「22時38分が岩国方面の新幹線終電です」という理由をつけて22時にぴしゃりと終わった。というか打ち切った。理由は簡単。翌11日にみんな朝からお盆の帰省の予定が入っていたからである。医局員は教授には非道である。

ただ医局説明会を通じて、「呼吸器内科を極める道のりは遠いが、その道の達人になるという目標は医局員みんな一緒である」という思いは伝わったのかなと思う。
今回の参加者のなかから一人でも松永道場へ入門してくれる人がいればいいなとおもいつつ道の日の出来事をしたためておこうと思う。

英語嫌い

2018年9月4日

英語がとにかく嫌いである。
教授から「たまには海外の学会とか行かないのか?」と聞かれることもあるが、私の答えはいつも「行きません」と即答。

以前国内留学していたときはその医局には中国とモンゴルからの留学生がいたので、つたない英語を操り、実験のプロトコールとか教えて貰っていた。あのころのわたしは少しは英語を頑張ろうという意欲だけはあった。
国内留学から戻って、父の病院にバイトにいっていたとき「咳が止まらない」という主訴の外国人の患者さんが来たのである。
すこし英語ができる父にお願いすればよかったのであるが、私が診察することになった。
「Do you have a fever?」などと、四苦八苦して英語で問診したのであるが、最後に「あなたの英語、まったく通じませんよ」と日本語で言われてしまった。実はこの外国人、日本語が堪能であることを隠していたのである。
これがトラウマでそれ以降英語がひどく嫌いになった。あの外国人の顔は10年経っても忘れてない。
これで悔しいと思い英語を頑張るのが普通なのだろうが、「売り家と唐様で書く三代目」といわれる典型的な道楽息子なのでわたしは英語から逃げるようになった。

1月に韓国からチャン君という医学生が2週間見学にきたことがあった。
実習の時間割は浅見先生が作ったのであるが私にも担当がある。
チャン君が私の外来に見学やって来る日が来た。仕方ないが英語で会話するしかない。
もう地獄である。
「Patient has lung cancer」「Gefitinib is very expesive medicine」くらいしかいえない。英語から逃げていたことを後悔した瞬間である。

じつは亡き我が恩師も英語があまり得意ではなかった。ある学会のレセプションで海外からの来賓の先生がイモ焼酎を指さし「このサケは何だ?」と恩師に聞いたそうだ。
恩師の答えは「Made from potato」と一言。ウソではないが意味が伝わったかはかなり怪しい。
よく「弟子は師匠の思うようには育たないが、師匠のようには育つ」というので、英語が苦手なところは立派なお弟子さんになれたと自負しておこう。
こんなこというと亡き恩師に天から怒られるかもしれないが・・・

三年寝太郎

2018年9月4日

2018年7月1日で呼吸器感染症内科が設立3周年となった。
当初4人で始まった医局も今や10人となり、一応周囲に認識してもらえる診療科になったのかなと。
こないだ珍しく教授室に入ったら、最初の4人のメンバーでの写真が飾ってあったので柄にもなく少しホロリとなってしまった。
当時の写真と比べると教授の白髪も一気に増えたので、ここまでくるにはヒラ医局員の我々には分からぬ多大な苦労があったのだろう。 私の存在自体が教授の白髪の原因ではないことを真に願うのみである。

この3年の間に大畑先生の研修医奨励賞受賞に始まり、大石先生、濱田先生、末竹先生、上原先生と地方会の度に毎回奨励賞を受賞してくる優秀な後輩たちも増えて本当にみんな頑張っておられる。
振り返るとわたしもここに赴任して3年たったが思えばな~んにもやってないなと再認識してしまった。
初期メンバーの伊藤先生が開業している厚狭には三年寝太郎の逸話があり、駅前には寝太郎の銅像が建っている。寝太郎の逸話は「ろくに仕事もせず寝続けていたため周囲から「寝太郎」と揶揄されていた男が3年3ヶ月寝続けた後に潅漑などの偉業を成し遂げるという」お話である。わたしは山口大学赴任以来3年寝続けているので教授からみたらまさに三年寝太郎状態だろう。このまま寝続けるか、逸話のようにあと残り3か月でとりあえず何か業績をだすかを、教授に試されているような気もするがとりあえず頑張ってみようと思う。

「今日も元気だ 教授がいない」

2018年5月25日

ATS出発前日、例によって教授が医局にやってきた。
教授「山路先生、どうやって空港まで行くんだ?」
山路先生「奥さんに送ってもらいます」と愛妻家らしいお返事。
教授「タクシーを頼んでるからだれか乗っていかないか? 末竹先生はどうするんだ?」
末竹先生「いや、あの、その、バスで行こうかと」(オロオロ(>_<))
この光景、デジャブである。以前地方会に行くときにも似たような会話を聞いた。
私の亡き恩師がしみじみ言っていた「教授とは孤独なんだよ」という意味がよくわかった気がした。
ちなみに翌日大石先生の奥さまにお会いしたので「ご主人はどうやって空港まで行くんですか?」と聞いてみた。帰ってきた答えは意外で「知りません。勝手に行くんじゃないですか?」と。少し大石家が心配になった。

以上紆余曲折がありながらも、松永教授、山路先生、末竹先生、大石先生はサンディエゴに飛び立った。尾翼が赤の飛行機なら成田-サンディエゴは直行便があるが、みなさんは青の飛行機がお好きなようで教授と同じ飛行機でロサンジェルス乗換えのサンディエゴ入りという。わたしなら迷わず赤の飛行機を選ぶことだろう。理由は言うに憚られるがみなさんの想像にお任せする。
末竹先生は初の海外学会ということで出発の日が近くなるほどに挙動不審になってきた。私と浅見先生で「パスポートと現金は腹巻きに巻いていくんだぞ」「銀行に行ってトラベラーズチェック買ってくるんだぞ」(トラベラーズチェックは2013年ころに廃止)と昭和の知識を教え込んでおいた。
その甲斐があったのか、サンディエゴからの大石先生からのメールには「末竹先生が羽田空港とロサンジェルス空港の手荷物検査に何回も引っかかった」と報告があり、医局では「彼は何を持ち込もうこもうとしたんだ?」と話題になった。
メールにはその他、山路先生がMini symposiumで200名収容の部屋で立ち見が出る中で堂々とOral発表を終えたこと、末竹先生がポスターセッションで一生懸命に質問に答えていたこと、大石先生がAPSR/ISRD Travel Awardを受賞したことが記載されていた。
そして4人で楽しそうに食事をしている写真も添えてあった。
でも留守番組のこちらも楽しいのである。なんといっても、1週間教授がいない。
昔タバコのポスターに「今日も元気だ、たばこがうまい」というキャッチコピーがあったがそれをもじれば「今日も元気だ。教授がいない」である。
もうすぐATSで最新の知見に触れ’元気‘になった教授が帰ってくる。
迎え入れる留守番組もいまのうち、しっかり充電しておこうと思う。

鉄板フレーズ

2018年5月25日

5月14日(月)の朝に学会発表の予演会があった。
最初は前座で5月19日の内科学会中国支部会に発表する濱田先生の予演。
「進展型小細胞肺癌に対する化学療法で改善した抗AMPA受容体抗体,抗VGKC抗体陽性傍腫瘍性辺縁系脳炎の69歳男性例」
この演題は内輪の勉強会で数回症例提示されており今回は満を期しての地方会での発表。
症例を何回も使い回すのは品がないのでそろそろ論文化してもらわないといけません。

続きまして主演題の山路先生の発表
米国呼吸器学会(ATS)のMini symposiumに採択された演題。
Detection of Biomarkers of Steroid Response in COPD (De-Stress Study)

10分間、英語ですらすらと発表する山路先生の姿に驚きとともに質疑応答に関しても、こちらが日本語で質問しても英語で答えるという秀逸の予演。

松永教授が「ATSのMini symposiumなんか日本人3人くらいしか採択されないんだぞ。これは栄誉だ」とクリクラとポリクリの学生に熱弁。
教授はたまに話を盛りますが、これに関しては、まあ、その通りだと思います。

英語ができない私からのできるアドバイスとかあるわけないので、人生の経験として鉄板フレーズを教えておきました。
質問に窮したら教授の方をみて、こう答えなさい
「My boss will answer」とね。

今年の新入医局員

2018年5月25日

専門医制度のごたごたで入局がどうなることかと危ぶまれたが、今年も無事に松田先生という入局者を迎えることができた。
じつは実は昨年11月に医局に挨拶に来ていたのだが、専門医制度の登録などの絡みもありこのブログ上には登場していなかったのである。
彼も、もちろん教授から聴診器を貰っているし、12月にあった当科恒例の鉄板焼き忘年会にも参加され、一緒にA5ランク佐賀牛を堪能しました。(わたしはもちろんお腹をこわしました)

松田先生は近畿大学を卒業されても都会の大阪に残ることなく地元山口に戻ってきたというレアな存在。彼の双肩に山口の未来の医療がのしかかります。

4月から松崎先生、筑本先生、原田先生という3人の研修医もローテーションで廻ってきました。自分たちが講義や実習を担当した学生が立派になって研修に来るというのは感無量でこれこそ教育職の醍醐味。

いい研修ができるよう指導医も頑張りたいと思います。

「はまちゃんがブルー」

2018年1月5日

タイトルを見て、濱田先生が「ああ、やっぱり呼吸器内科になんか入局するんじゃなかった」と後悔のあまりブルーになっていると思った方。残念でした。
濱田先生が見事ブルージャーナル(AJRCCM)に掲載されたのでした。
AJRCCM (American Journal of Respiratory Critical Care Medicine ) 別名、ブルージャーナル(表紙が青いため)。
集中治療のトップジャーナルであるとともに、米国呼吸器系雑誌のトップジャーナルでもある。インパクトファクターは呼吸器分野/集中治療分野で上位ランクの13.204 (2016 Journal Citation ReportsR [Clarivate Analytics, 2017])
だれもがこのレベルの研究を一度はやってみたいと夢見るもの。
早くも医業ならぬ偉業達成である。

先日教授と小野田に一緒に会議に行ったとき車中で「はまちゃんがブルーだぞ、おい」
「すげえなぁ」 その台詞を車中で10回くらい聞かされた。
その台詞には「オメーも、頑張れよ!」という裏の意味があるかもしれないがそこはさらりと聞き流した。
それでタイトルが「はまちゃんがブルー」である。

Am J Respir Crit Care Med. 2018 Jan 1;197(1):130-131. doi: 10.1164/rccm.201708-1691IM.

Catch me if you can

2017年12月20日

別に詐欺師を演じたレオナルドディカプリオの映画のことではない。 現在の私の状況を例えるにいい言葉かなと思ったのである。

先日国公立大学感染相互チェック実地調査があった。 山梨大学と横浜市立大学附属指紋総合医療センターから当院の感染対策の状況についてチェックをうけた。 初日は質疑応答や書類審査が主な内容である。

「感染制御部の医師は先生お一人ですか?」
 →「はい、専任なので時間によっては呼吸器内科医の業務もしております」と答える。1)
「では、なかなか捕まらないこともありますよね」
 →「外来しているときなどは、すぐに電話に出ることはできないこともあります・・・」
すこし冷汗を書きながら、質疑応答を終える。

このように、院内の先生が私に尋ねたいことがあって感染制御部に電話しても私がいないことがある。 これはこれで大変申し訳ないことではあるがわたしは一人しかいないのである。 しかし時間によって、呼吸器内科医だったり、感染制御部の副部長であったり、労働安全委委員の衛生管理者であったりでレオナルドディカプリオの映画ばりにいろいろ変装するのである。 院内の先生には、なかなか私が捕まらなくてご不便をおかけしているとは思い、ここでお詫びするのである。 わざと逃げ回っているのではないのだが、もちろん最も捕まりたくない人は教授であることはいうまでもない。 今回の2つの大学からの訪問は厳しいチェックではあったが、無事に終わって今年もあとわずかである。のこり少し頑張ろう。

1) 専任とは業務の51%以上を感染制御業務に当てていることをいう。残り49%は他の業務をやることもある。

はぐれ医者純情派

2017年12月20日

このたび感染症学会西日本地方会学術集会にいった。 今回は珍しく自分が筆頭で発表にいった。場所はまたしても長崎である。 医局のことを宣伝して書かねばならぬのだがネタがないのである。 教授はブログを更新しろというので、どうしても学会道中記になってしまうのはやむを得ない。

今回の学会会場も前回の気管支内視鏡学会と同じく浦上駅前ブリックホール。 秋の長崎は季候がいいので海外からの観光客が多いのか宿が全くとれない。 今回は学会会場からは離れているが繁華街の思案橋に投宿。長崎の同級生が「思案橋は花街丸山に行くか行かないか思案したことから思案橋と言うのだよ」と教えてくれたことを思い出した。でもいまは橋なんか見当たらない。 早速ホテルの観光案内をみて思案橋横丁へ繰り出す。尾翼が「青」の飛行機の機内誌に載ったというお店のちゃんぽんをいただく。以前長崎に来たときは皿うどんを食べたと思うと、私はつくづくメンクイなのだと実感した。 そして、ちゃんぽんと皿うどん どちらを食べるかいつも迷うのである。 これは地元民も同じのようでアンケートでは五分五分の結果であった。 そもそもルーツは同じで、四海樓の創業者、陳平順さんが1899年、生活が苦しい留学生を思い、栄養とボリューム、安さを追求して考案したのが、ちゃんぽんの始まり。そこからアレンジして、汁がない太麺の皿うどん、調理工程を簡便化した細麺の皿うどん-と派生していったのだという。

よし、今日の昼は大学の食堂でちゃんぽんを食べよう。 いつもひとりはぐれてたべていますので、もしご一緒してもいいかたは、食堂で声をかけてください。

「邂逅:かいこう」

2017年12月20日

先日、感染制御部の中四国ブロックの集まりで四国にいった。 以前住んでいたので土地勘は十分にある。 岡山から瀬戸大橋を渡り、高松で特急に乗り換える。 高松駅のホームにうどん屋があって、昔よくそこでうどんを食べていた。 今回の乗換えは7分の時間があるのでダッシュしてうどんを食べた。 同行者にはあきれられたが本場のうどんはやはりうまい。

特急にゆられ目的地に到着。 いざ会議のある大学病院につくと私が居た頃と大幅に変わっていた。 病棟も外来棟も医局の建物もすべて建てかわっていた。 歯学部の建物も壊されている最中だった。 月日は無情に流れているものである。 町もかわってしまって以前よく行っていた店が潰れてしまっていた。 とりあえず当時一緒に大学院で学んだ同期に連絡をする。 「どこかゴハンおいしいところ知らない?」とメール 「え、?こっち来てるの?来るんだったら早く連絡くれないと!」と 返事がきた。 感染の研修会の後に忙しい時間を縫って同期2人が会いに来てくれた。 15年前の大学院の思い出を振り返ると、記憶が蘇ったり、他人の目にはどう映っていたのかがわかったりして嬉しく、楽しいものである。

「子の曰(のたま)わく、学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。
 朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。
 人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。」
意味(解釈)は諸説あるが、
「習ったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。
 友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことでしょうか。
 他人が自分を認めてくれないからといって不平不満を言うことはありません。なんと徳のある人ではないでしょうか。」
と自分で勝手に解釈して、再会を喜んだ。
仲間と久しぶりに会い、論語の言葉を思い出し、喜ばしくもあり、楽しくもあり、身が引き締まる気もする一日だった。 表題の「邂逅」は当時お世話になった曽根三郎教授がお好きな言葉である。 邂逅とは思いがけない出会いのことである。 思いがけない出会いはどこにあるか分からない。 いま山口大学で働いているがここでの出会いも大事にしたいと思う。

矢寺教授来たる

2017年9月11日

とあるヒトから最近の呼吸器感染症内科のブログは学会道中記ばかりだと指摘され、たまには医局であった出来事を記そうと思う。

平成29年9月7日(木) 特別講義のために産業医科大学呼吸器内科の矢寺教授に山口大学にお越しいただいた。 本来は5年生臨床系特別専門講義でお呼びしたのだが、我々医局員にも60分の専門的レクチャーをいただいた。内容は「16rRNAによる網羅的細菌叢について」であった。 産業医科大学呼吸器内科の大きなお仕事であり興味深く拝聴した。 どのようなものか興味がある方は、日内会誌 102:2875~2881,2013(https://www.jstage.jst.go.jp/article/naika/102/11/102_2875/_pdf)を参照されるとよいだろう。
網羅的細菌叢解析のきっかけは城戸先生(現:准教授)が画像上肺炎かがん性リンパ管症か悩んだ症例に気管支鏡を施行し気管支洗浄液のGram染色をしたところ見慣れない細菌がいたのを発見。そこから微生物学教室に相談して16rRNAを用いて網羅的細菌叢解析して起炎菌が判明したが始まったとのこと。
こういう話は論文には書いてなく、実際に手を動かした人間ではないとわからない話で大変参考になった。
よく「隣の医局は海外より遠い」と言われるがこのように教室の垣根が低いと立派な業績がでてくるのであろう。
その他、川波先生が論文にしている「喀痰からMRSAが培養されていても気管支肺胞洗浄液から黄色ブドウ球菌のクローンが検出されなかった症例が多数あった。真のMRSA肺炎は少ないのではないか」という話は目から鱗の話であった。 BMC Infect Dis. 2016 Apr 16;16:155. doi: 10.1186/s12879-016-1493-3.

講演の中でいくつか論文発表されたデータを提示され、産業医大には優秀な人材が多数いらっしゃるのだと感銘を受けた。 実は城戸先生も川波先生もわたしの高校の同級生である。あと一人高校の同級生で呼吸器内科をしているのがいるのだが彼は先月カナダのMcMaster大学のPaul O'Byrne先生のところへ留学した。 「みんな頑張ってるなぁ」と思う一方、なにもやってない自分を反省し、 教授が医局の廊下に張っている「一瞬一生」という張り紙の意味がしみじみ堪えた。

「青」と「赤」と「黒」

2017年9月2日

北海道大学の品川先生から、7月に気管支内視鏡学会の北海道支部会の講演とハンズオンセミナーをしてほしいといわれ、札幌に行った。 その際、久しぶりに尾翼が「青」の飛行機に乗った。 大手の飛行会社には「赤」と「青」の飛行機があるが、私は普段は「赤」の飛行機に乗っている。 夜中受験勉強をしていた頃、FMラジオでJET STREAMというラジオ番組があっていた。 午前0時からの城達也氏の声に魅せられよく聞いていた。 その番組に感化されスポンサーである「赤」の飛行機にずっと乗っていた。 教授がいつも「青」にのっていて一緒になりたくないので自分は「赤」に乗っているというわけではないということは言い訳しておこう。

今回は飛行機の乗り継ぎの都合で数年ぶりに「青」の飛行機に乗った。 17:20発の宇部→羽田で幸い機内食がでたのでとりあえずいただく ところが羽田→新千歳の便でまた機内食がでた。元来小食ではあるが、ここは食わねば損をした気になるので2回目の夕食をいただく。 さらに言えば、飛行機には何度も乗っているが風景も運賃に含まれると思うと、飛行機は窓際に座らないと損をした気になる。やはり根は吝嗇家である。 しかし飛行機は悪天候で遅れて窓からは雲しか見えず、新千歳着は22時であった。 さらに言えば札幌のホテルにチェックインしたのは23時20分であった。機内食の2度食いもあり北海道の美食を味わう時間も胃袋の余裕もなかった。 翌日は北海道大学で朝から講演なのでスライドを手直し、とりあえず寝たがカーテンをよく閉めなかったのが失敗であった。札幌の日の出は早いのである。調べると札幌の日の出は4時である。部屋が明るくなり5時には起きてしまった。

さて、本題の北海道大学での講演はオーディエンスのレスポンスも乏しく終わり、講演内容がまずかったか・・・と猛省。 いつもあれだけ饒舌に講演ができる教授を’そのときだけは’うらやましく思った。

そんなわたしを不憫に思ったか、北海道大学の品川先生が「せっかく北海道までいらしたので・・」とお昼ご飯にお寿司をごちそういただいた。 15:30の便で新千歳→羽田なのでゆっくりはできなかったがそれはもう緊張がほぐれた瞬間である。品川先生に感謝である。 新千歳→羽田では、また機内食がでた。お寿司で腹一杯なのでさすがに食べられない。 今回ばかりはお寿司の余韻に浸りたいので機内食はいただかず、旅行気分でリラックスして過ごしたのであった。 ところがである。羽田→宇部は「青」でも「赤」でもなく「黒」の飛行機であったが、私の隣席に某教授(教務委員長)が座られた。 緊張に襲われてしまい機体の色のごとく真っ黒な日常に逆戻りであった。 まことに人生は皮肉である。

中四国呼吸器学会地方会 in 高知

2017年8月26日

呼吸器学会の地方会が高知であった。高知は遠い。別に「長崎が遠い」みたいな意味はなく純粋に遠い。宇部→新山口→岡山→高知と乗換えして約5時間の道のりである。
今回、私は大学で留守番を仰せつかった。
今回の学会は通常PowerPointによる発表が主体のところポスター発表もあるのである。
スライド発表であれば5時間の車中で泥縄ではあるがスライドの修正が効くのである。しかし今回はポスター発表もあるというので濱田先生はポスター発表となった。しかしこれがくせ者。A0サイズのポスターは作り慣れないのでいざ印刷するとサイズが合わないのである。
教授秘書がデータをもらいポスター印刷をしてきたのだが、できあがったポスターをわたしに見てほしいといってきた。こういう頼み事をしてくるときの教授秘書はだいたいウラがあるので要注意なのである。
ポスターをみたのだが、どう見てもCT画像の解像度もラフだし、ポスターの縦横の比もおかしい。 それが学会の前日の夕方の出来事。ここから濱田先生の焦りっぷりはハンパではなかった。
夜遅くまで自分でポスター印刷機を動かし、なんとか間に合わせて出発していった。
これこそ若き研修医に教えておきたい「ポスター発表のワナ」である。

さて、学会といえば奨励賞である。何が何でもこれをとらないと教授が納得しない。
今回はクリクラの学生さんが担当した症例を6年生の吉野さんに発表してもらった。腫瘍随伴性天疱瘡に伴う閉塞性細気管支炎様肺病変を確認できた希有な症例であった。私自身の1例しか経験したことがない。
肖像権の問題があるが本人から肖像権の許可は得たのでここで披露するが見事吉野さんが奨励賞をゲットした。
今回濱田先生が写真を担当したが、他の写真を見てみると高知へ行く土讃線の大歩危、小歩危の写真はわかるが、末竹先生の酔っ払った写真や手ぶれして何を撮ったか分からない写真ばかりであった。学会の前日になにをしていたか豈図らんやである。 学会で奨励賞をとりたい若き医師はぜひ当科にて研修希望を出してください。
当科はいつでもWelcomeです。

長崎が遠い

2017年8月26日

忙しくてブログの更新が止まっていたことを詫びつつ最近の出来事を記そうと思う。 どうやらこのブログにはコアなファンがいるようで「最近更新が滞っている」との複数の方からおしかりをいただいた。東京であった研究会で某大学の教授より「あれ、キミが書いてるんだろ。最近更新してないな」と言われてしまった。 以前アクセス歴をみたが確かに山口がもちろん多いのだが、東京や九州からアクセスがある。中には中国やロシアからのアクセスもあった。ただしこれはサイバー攻撃だろう。

さて6月は内視鏡学会で長崎へ行った。長崎は仕事で7年通った土地なので土地勘はある。さらに長崎大学は第一志望の大学でセンターリサーチはA判定だったのに不合格になった忌々しい思い出もあり長崎に対する思い入れは人一倍強い。なつかしの長崎駅に降り立ち学会会場へ向かう。 学会会場で知り合いと最近発売になった内視鏡処置具の使い勝手について意見交換を行い、情報を仕入れる。今回の主目的は達成。あとはEBUS-TBNAのハンズオンセミナーの講師をやって終了。

夜は暇だったので中華街で皿うどんを堪能した後に、長崎名物100万ドルの夜景を見ようと稲佐山に行ってみた。 ロープウェイーで稲佐山に登ると山頂駅はカップルとバスツアーの観光客ばかりでスーツ姿のおじさんは場違い感満載である。しくじったと思うが帰りのロープウェイーは15分後である。 ロープウェイーに1230円払って登ってきたからには夜景を堪能しないと損をした気分になるので意を決して展望台に挑む。孤独な羞恥心を隠し、カップルの隙間から夜景を臨むが当日は曇りであまり夜景がきれいではない。おまけにスマホで写真をとってもちっともきれいじゃない。さらに追い打ちをかけるように小雨も降ってきた。「長崎は今日も雨だった」である。

翌朝ホテルで朝食をいただきながら、甘い卵焼きに甘いお醤油に、ああ長崎の味付けだと懐かしく思った。最近年のせいか記憶は曖昧になってきたが味覚はいまだに衰えてなかった。 みなさんは「長崎が遠い」という表現をご存じだろうか。 確かに長崎は山口から電車で3時間弱と遠いが、そういう意味ではない。 「長崎が遠い」とは「味付けの甘さが足らない」という意味である。 「この卵焼きは長崎が遠いね」といえば甘さが足らない、悪く言えば砂糖をけちっているという意味である 長崎は江戸時代、出島経由で砂糖がたくさん入ってきたので、すべての味付けが甘いのである。

いま山口大学の呼吸器感染症内科は人数が少なくて多忙を極めているが、帰りの車中では、いつかは来るだろう、立派な医局になるという甘い夢を見てその日大学に戻った。

教授元気で留守がいい

2017年5月29日

ATS Conference 2017(American thoracic Society)があった。山路先生が同行したが、教授と四六時中一緒の彼はもはやツアーコンダクターである。彼はその事実を知ると、あわてて本屋へ走り、「地球の歩き方」を購入していた。
残された医局員は教授が5日間いないというだけで気持ちも足取りも軽い。医局に清らかな空気が流れている。医局の窓から見える景色も同じ景色でもよどみがなく見える。
教授不在の間、教授秘書はさらに容姿端麗になったようにも見えた。

わたしは決して教授が嫌いなわけではない。私の恩師はある日突然逝去された。残された医局員はたちつくすのみであった。あのような思いはもう二度としたくない。
要は「教授元気で留守がいい」のである。
この元ネタは1986年の流行語大賞である。
勘違いされては困るのだが、教授の事はもちろん尊敬しています。
そうじゃなかったら、一緒に働いてないし。
もちろん邪魔者扱いしているわけでもありません。
でも私は未だに教授に対してどうしても気を使っちゃうんですね。
尊敬しているからこそ気を使う。
そして
気を使うと、疲れちゃうんですよね。
だからこそ
「教授元気で留守がいい」のです。

先日教授はワシントンから帰国した。
学会で最新の知見に触れActivateされ医局員にとって危険な状態である。
いわれていた宿題を早々に片付けることとして今回ブログはこれくらいで終わることにしよう。

サクラサク

2017年5月29日

4月になりいろいろと医局行事があったのだが、全く更新できなかったのを詫びつつブログを書くことにする。
私自身感染制御部に異動したので、毎日が慣れないことばかりで4月はあっと過ぎた。

いま振り返ると4月は侵入医局員、いや新入医局員の歓迎会があった。
当科の恒例でまた肉である。今年も焼き肉だというのでわたしは昼絶食で臨んだが、やはり胃袋に堪えた。ましてや当直明けである。
今回の幹事は大石先生が努めてくれたが、忘年会で最も医局員を困惑させた座席配置のことを彼は全く考えてない。おそらくは忘年会の席決めのくじ引きでご自身がジョーカーをひいて教授の横の席になったしまったことを根に持ってのことだろう。
大石先生の忖度が足らずに私は教授の対面の席となった。元来食は細いが教授の前なのでいっそう食欲は落ちてカルビを数枚食べてgive upである。
対して私の横に座った野山先生はよく食べる。追加注文までご自身でされる。このバイタリティがあれば呼吸器感染症内科は大丈夫だと思った。濱田先生も上原先生も白ご飯片手によく食べていた。今年の新入医局員はよく食べるので大丈夫だと思った。

4月の恒例行事と言えばお花見である。
昨年度は予定した日にサクラが二分咲きで1週間延期になった。そして1週間後に散り初めのサクラの中でお花見をした記憶がある。今年は予定した日は天気にも恵まれ4分咲きのサクラのもとお花見ができた。おそらく教授の行いがよいのであろう。
しかし忙しくてそのときの会話の内容はさっぱりと忘れた。とにかく教授からいかに遠くの席を確保するかだけは努力した記憶がある。
さらに元来ひねくれた性格であるので、桜の花より満開のタンポポに惹かれ写真を撮った。
今は地べたに咲くたんぽぽのようであってもいつかは満開の桜のように華やか講座になりたいものだと気持ちを新たにした。
来年のサクラをどんな気分でみることができるか。平成29年度も頑張ろう。

「人間到る処に青山あり」

2017年4月24日

3月4月は異動の季節である。

新入医局員として県立総合医療センターから濱田先生、三重大学からは上原先生の2名の若き修練医が新メンバーに加わることになった。 そして倉敷中央病院からエキスパートの野山麻紀先生が指導医として加わった。 そして当科からは大畑先生が宇部医療センターに出向されることになった。 ちなみにわたしは感染制御部に所属変更である。

一年は早く感じ山口大学に呼吸器感染症内科ができて1年8ヶ月になった。しかし私は退勤途中に骨折をしてしまうという名誉の負傷のため手術と抜釘で計3ヶ月の休職期間があるので実質1年5ヶ月である。 通勤途中の怪我ということで労災扱いであったが、その私が4月から病院労働安全衛生委員も命ぜられた。人生はなんとも皮肉である。

それにしても1年が早い。 1年が年々早く感じることをジャネーの法則というらしい。 6歳児の1年は人生の1/6だが、40歳の1年は1/40である。 光陰矢のごとし 少年老い易く学成り難しで、なんとなく過ぎた1年8ヶ月であった。 ここまで苦労は多かったが何の業績も形に出してないのでこれはこれで教授にシバかれるのでやばいと反省。

高校時代に古文の授業で思い出に残っている漢詩がある。

  • 男児立志出郷関 男児(だんじ)志(こころざし)をたてて郷関を出ず
  • 学若無成死不還 学(がく)若(も)し無くんば死すとも還(かえ)らず
  • 埋骨豈惟墳墓地 骨を埋むる豈(あ)に惟(た)だ墳墓の地のみならんや
  • 人間到処有青山 人間(じんかん)到る処(ところ)に青山(せいざん)有り

男子たるもの、ひとたび志を立てて故郷を出たからには、学業の成就をみなければ、いかなることがあっても、わが故郷に帰るものではない。 自分の骨を埋めるのは、必ずしも先祖代々の故郷を望むものではない。 この世はどこに行っても、自分の墓地となる青く美しい山はあるのだから。

大畑先生には新しい任地の宇部医療センターで頑張ってもらいたいし、わたしも感染制御部に移っても頑張ろうと思う。

三行革命

2017年2月27日

三行革命? 産業革命の書き間違いでは?と思われたかもしれません。
わたしは以前の職場の時から通勤時間はラジオを聞く習慣がある。
以前は電車通勤だったのでスマホでラジオを聞きながら、手には新聞。オヤジの生態である。決して医学論文を読まないところが根っからのナマケモノである。
そして今はクルマ通勤なので車内でラジオ。それも情報の多いAMラジオである。音楽を聴かない理由は単調で眠くなるからである。ラジオなら情報を聞きながら理解しようと頭を働かせるので眠気が来ないだろうという根拠のない理由からである。
そのラジオのなかで「三行革命」ということを言っていた。
メモに毎日3行書くのだそうだ。
①    今日のできなかったことを書く
②    今日のできたことを書く
③    明日の目標を書く

だそうです。こうすれば毎日目標をもって過ごせるという話をしていた。
根っからのナマケモノの私は毎日同じことを書きそうな気もするが、年が明けて心機一転。
今年は少し目標をもって過ごしてみようと思う。

つつがなく・・・

2017年2月27日

多忙にてこのブログの更新が途絶えていることをわびつつ更新する。

12月末の某日に医局の忘年会があった。
大学近くの鉄板焼き屋を貸し切って豪勢に行ったのである。

去年は焼き肉。今回は鉄板焼きと当科には「和食でしっぽり」という選択肢は皆無の様である。
食が細いわたしには酷な講座である。
なぜ鉄板焼きになったかというと教授の希望とのこと。これには教授は知らぬが多少のいきさつがある。まず予算で悩む。やはり結構高い。幹事の山路先生、教授秘書、私で対応策を考える。「お酒は安い酒しか頼んではいけない」と医局員に事前ブリーフィングすることで予算のことは解決。次は席次である。
鉄板焼き→カウンター席→教授の隣席は誰が座るか?
これは永遠の課題である。とりあえず隣に准教授を据えるとしても、逆サイドに誰を据えるか?
予算以上に席の配置は大問題である。
こうなると、お互いに心の中で牽制し合うのである。
「(山路)俺は座らないぞ!」
「(教授秘書)先生お隣座らないんですか、じゃぁわたしが座りますよ」
「(わたし)いや、俺が座るよ」
「(山路)・・・じゃぁ、俺が教授の隣に座るよ」
「(わたし、教授秘書)どうぞ、どうぞ」
もうダチョウ倶楽部の世界である。

当日、結局はくじ引きで席は決められ、ジョーカーは大石先生が引いてしまった。
くじ運のよい教授秘書と私はカウンターとは離れたテーブル席でビフテキを堪能したのである。
しかし、うちの教授は活動的なのである。医局員からのお酌をじっと席で待つようなお方ではない。アルコールでactivateされ自らがグラスを持って動き回るのである。
我々の心配は杞憂に終わった。

バリアフリーの世の中、当科は教授までの距離が一番近い講座と宣言してこのようにつつがなく一年を締めくくれることに感謝しようと思う。

「どや顔」

2016年12月28日

わたしの亡き恩師の七回忌の案内が医局に届いていた。その恩師を想いながら、恩師がボソッと言っていた言葉を思い出した。「教授とは孤独なんだよ」と。 さて呼吸器学会地方会が12月23日に行われた。
12月初旬に教授秘書が「○○先生は今度の地方会、前日から岡山に行かれますか?」と聞き回るので医局員は「これは何かウラがあるに違いない」と踏んでいた。 教授秘書を問い詰めると、「前泊する教授が医局員と夕食をともにしたいので誰が前泊するのか聞くように言われた」と白状した。‘教授’秘書とは名ばかり、いとも簡単に教授を売った。
その思惑がバレてしまい、結果誰も前泊をしなかった。やはり「教授とは孤独なのである」。

それでも教授はめげない。これくらいではめげないから教授になれたのである。
今度は医局員に直接聞いて回るのである。「大畑はどうするんだ。朝の発表だから前の日から行かないのか?」 教授の魂胆はバレているので「始発の新幹線でいきます」の無情な返事。
これでも教授はあきらめない。「末竹はどうなんだ?ん?」 末竹先生の目が泳ぎはじめ、しどろもどろで答えを濁し始めた途端、教授は「わかった」とさみしく踵を返して自室に戻られた。

さて学会当日。前回研修医優秀演題賞を受賞した大畑先生の発表。夏の地方会の時は打って変わり、雨後の竹の子のように次々と質問が飛び出す。
続いて末竹先生の発表も行われた。バツが悪いことにこの男こういうときに限って風邪を引いて声がでないのである。もちろん発表後は体調不良につき早退である。

そして待ちに待った研修医優秀演題賞の発表。前回の学会では大畑先生が受賞されたが、この顛末はブログの過去の記事を見てもらいたい。(松永教授が中四国地方会で鮮烈なデビューを飾った。)
今回はなんと末竹先生が受賞をされた。しかしこの男、風邪を引いてすでに山口に帰ったあとである。当科のジンクスとしてはどうやら学会会場から早めに消えると受賞するらしい。
当科に入局を決めた濱田先生も初期研修医優秀演題賞を受賞された。
ダブル受賞の結果に一人で岡山に前泊の孤独はどこへやら、もう喜びで顔面が土砂崩れを起こさんばかりの、どや顔の教授である。
しかしそのどや顔もよく見てみると教授の頭にはこの1年半で明らかに白いものが増えた。
来年は白髪を増やさないよう学会にはご一緒しようと思った。

さあ、次回も学会賞取るぞ!である。

「一病息災」

2016年12月28日

昨年退勤途中の名誉の負傷にて左大腿骨に入っている金属除去で手術予定となった。
別にあえて金属を抜かなくても支障はないのだが体内に異物が入っているのもなんとなく異物感がして気持ち悪いので手術する気になった。
全身麻酔をかけるので術前検査が必要で整形外科の外来受診し、心電図、採血、胸部レントゲンとあちこちを回る。いざ回ってみると意外と距離がある。すべて回るには1時間弱はかかった。ここで患者さんの気持ちを実感。
手術は朝一の定例手術である。手術場でなじみの胸部外科の先生とすれ違うが全く気づいてくれない。病衣とはそれだけ病人を病人たらしめる強烈なアイテムであると実感することになる。
麻酔科の先生からプロポフォールを打たれるが3呼吸くらいで意識消失。気がつくと「手術終わりましたよ。部屋に戻りますよ」と声かけされる。実感としては30分程度にしか感じなかったが実際は3時間。不思議なものである。

血栓予防のためフットポンプがつけられ安静指示がでるが今回は骨が折れているわけではないので翌日から離床。食事開始。また山大の病院食をいただくことになる。数々の病院で検食として病院食をいただいたが、山大の病院食は普通においしい。ここは大事なことなので再度書いておく。
術後は順調に回復し最初の1週間は従順に入院生活を続けていたが、意外と堪えたのは糖分が足らないことであった。
元来甘党の自分にとって糖分のない入院生活は思いのほか辛かった。
「糖分を一番消費する臓器は大脳である」と講義でならった記憶はあるが、その通り脳が活躍していないことを感ずるのである。
お見舞いに来た呼吸器病棟のナースに「売店でチョコレート買ってきて」と懇願し、早速チョコレートを口にする。体温でとろけ口腔粘膜にまとわりつく食感に幸せを感じたと同時、糖分が行き渡るにつれ大脳かつてのように活躍し始めた。
入院前に「入院中時間があるから書けるだろ」と教授に言われた喘息アレルギーの依頼原稿の件を思い出したのであった。

ああ、無情である。

「袖触れ合うも多生の縁」

2016年12月28日

寄る年波の成果、このブログがかつての精彩を欠き、更新が全く行われなくなっていたことを恥じつつ更新をすることにする。

10月のある日、県立総合医療センターで研修をしている濱田先生がスーツ姿で挨拶に訪れた。うれしいことに次年度から呼吸器感染症内科の一員としてともに呼吸器の勉強をしたいと入局の挨拶であった。
濱田先生は夏に当科をローテートし実際医局の雰囲気を経験した上で入局してくれた第一号である。袖触れ合うも多生の縁である。
今年度入局した大畑先生、末竹先生は実は当科をローテーションせずに入局を決めたのである。なんとも勇気ある二人である。
しかし彼らも当時は口には出さなかったが「もしかしたらいまいる呼吸器の先生たちは腰掛けじゃないんだろうか?」「入局したはいいもの、実はこの先どうなるのか不安だった」と本音漏らしたことがある。
彼らには何度も言っているが「決して職歴ロンダリングの腰掛けで赴任したのでははない」と、この場で宣言しておくことにする。

そして恒例である、松永教授から聴診器のプレゼント。
まだ医局のデスクの数には若干の余裕があるのでぜひ入局を考えている先生は一度見学にきて見てください。
医療人育成センターのホームページ(http://www.cdc.hosp.yamaguchi-u.ac.jp/)の「病院見学」で申し込めば手続きはつつがなく終わります。

濱田先生はまじめで控え目で本当に優秀。わたしのように目立ちたがりのくせ恥ずかしがり屋という変な一面を持っていない。
ただ、濱田先生せっかくスーツで挨拶に来たのに、スーツがダブダブで袖が合ってないなかったのはご愛敬。
一緒に働くようになった時「人の見た目は9割」という本があるのでそれをプレゼントしようと思う。

 

呼吸器学会中四国地方会 in 広島

2016年8月29日

さる7月呼吸器学会中四国地方会があった。准教授にお留守番をお願いし総勢で広島に繰り出した。
このようにみんなで学会にいけるのは多数の医師がいる大学病院の役得である。
今回わたしは発表がないので荷物も気持ちも軽い。多年の経験によるとネクタイを締めてジャケットさえ着てればいい。当科の演題は、末竹先生の「ノカルジアによる膿胸の一例」、大畑先生の「髄膜炎菌による肺化膿症の一例」である。
末竹先生は9時からの最初のセッションでの発表。座長から「研修医のセッションですので建設的な討議を行いましょう」と軽いジャブが入る。
末竹先生はつつがなく発表をおえるも質疑が多数あり活発な討議が行われた。
午前最後のセッションの大畑先生は会場から全く質問がなく座長が質問してくれたおかげで、なんとか体裁を保った感すらあった。
発表をおえ、それこそ気持ちも軽くなったみんなで会場近くのお豆腐料理をいただきそれはリラックスした瞬間であった。そして再び会場にもどる。
昼食後に大畑先生が「研修医奨励賞の発表があるから最後まで居なきゃいけないね」と言っているのを聞いて「オメー、何言ってんだよ。質問もろくにでなかったのにそんなものとれるわけねぇだろ」「帰ってヨシ。その代わりおみやげのもみじ饅頭40個大学に買って帰れ」とは私の軽率な言葉。
寄る年波のせいか、学会発表に関しては慎重になった。しかしどうしたことが学会会場の言動には軽率になった自分をあとで恨んだ。

私は聞きたいセッションがあったので最後まで残っていた。
閉会式で研修医奨励賞の発表があった。「受賞者を読み上げます。受賞者は前へ。岡山大学○○先生。山口大学呼吸器感染症内科 大畑先生。・・・」
「ん?大畑?。やばい本当に受賞しちまったよ」と慌てて携帯電話で大畑先生に電話をするも時すでに遅し。新幹線に乗ってしまったか電話は通じず。はと目を移すと松永教授が研修医に混じり代わりに前に並んでいる。
私の背中にいやな冷汗。まわりの先生方がざわつく。「あれ、前に並んでるの松永教授じゃないか?」 島根大学の礒部教授が笑い転げてiphoneで写真を撮りまくる。
学会会長から「もちろん代わりの方ですよね」と皮肉交じりの言葉をうけて会場が大笑い。私だけがきれいさっぱり笑えなかった。軽率な言葉に大畑先生を帰してしまった自分にすっかり自己喪失である。

さぁ、来年もまた学会賞とるぞ!である。

「さようなら こんにちは」

2016年8月29日

ブログの更新が途絶えてるぞと教授にいわれあわてて3ヶ月分を記載することをわびなければならない。
教授に言われないとなにも仕事をしない性分は骨髄まで染みついてるらしい。

2016年3月に苦楽をともにした伊藤先生が退職された。
2015年7月に松永教授とともにいち早く赴任し呼吸器感染症内科の診療体制を1ヶ月にわたって準備してくれた功労者である。
診療開始後は病棟医長として病棟患者を一気に診療してくれ、八面六臂の活躍でした。 退職後は実家を継承して新規に病院を建て直し呼吸器内科に特化した診療所を厚狭に開業されました。
山口県内には呼吸器専門医は38人しかいませんが、彼は呼吸器専門医で開業する数少ない一人である。なかには素人のような呼吸器専門医もいるが伊藤先生は数々の指導医から薫陶を受けた正真正銘の呼吸器専門医である。
某教授が言っていた言葉がある。「同窓会して開業した同級生とあったんだ。彼が強調するんだよ。‘借金とはものすごいプレッシャーだよ‘と。そんなこと聞かされたらね、我々大学での苦労なんてたいしたことはないなぁと思えて自分も頑張らないとなぁと思ったよ」と。 伊藤先生のプレッシャーいかばかりかと思います。
せめて伊藤先生がクリニックのことを忘れて、どこかへ家族旅行いけるように、そのうち‘代診留守番クーポン券‘を差し上げたいと思います。
お別れの日に松永教授からは、餞(はなむけ)の言葉と聴診器のプレゼントがありました。

そして4月からは山路先生、末竹先生、大畑先生がこられました。
山路先生は飯塚病院呼吸器内科で鍛えられた即戦力です。福岡県の某大学の呼吸器内科や放射線科が山路先生のことを一生懸命スカウトしてたようですがそれを振り切り、地縁血縁のない山口大学呼吸器感染症内科を選んだレアな先生です。
末竹先生は故郷の萩に錦を飾るべく当科を選ばれました。福岡県の某大学の呼吸器内科に研修に行っていた絡みもあり、激しい争奪戦の末に当科が彼をゲットしました。
大畑先生は開業するお父上を継承するべく当科を選ばれました。
そして2内科のご厚意で宇部医療センターから大石先生が助っ人で当科に来てくれました。

あたらしい体勢での呼吸器感染症内科にご期待ください。

木曜セミナー

2016年3月22日

当院の研修医は「木曜セミナー」といって各診療科の代表が研修医に向けて40分のレクチャーを行うことになっている。 分野は最先端医療ことから医療安全のことまで多岐にわたる。
わたしがご指名を受けたので「見逃しちゃいかんばい。胸部レントゲン」で不肖ながらつたないレクチャーをした。 このレクチャーはお弁当がでるので、つまらないレクチャーをすると疲労がたまった研修医は自然の摂理で午睡されJCS300の世界へ突入する。 わが母校の精神科の教授が「午睡は成績を上げる」といっていたのでそれもヨシとする。

胸部レントゲンは奥が深くいまだに悩みは尽きない。父は悩ましいフィルムはシャウカステンに斜めにかざしたり、直射日光に照らしたりして見ていたが、いまはフィルムレスなのでモニターの性能に左右されることもまた多い。
今回のレクチャーでは断層写真のことは話さなかったが自分の学年が断層写真を撮っていた最後の世代だとおもう。(この断層写真はCTのことではない!)

胸部レントゲンは呼吸器内科医の永遠の課題であるので勉強会に何度もいった。
肺癌診断会という寺子屋形式の講習会がありいままで2回参加した。
1回目は第32回(2006年)の診断会であった。当時山口大学放射線科におられた松本常男先生(現:宇部医療センター)が主催され、湯田温泉へ2泊3日泊まりこみでいった記憶がある。
OSCE試験のようにブースを10名前後でクルクル回って読影をするのである。講師の先生より指名されて読影しないといけないので相当に緊張した。しかし呼吸器内科医の道を歩み始めたころなのでそれなりの自信はあった。そして見事診断をはずしまくった。
いまの自分ならどうだろうか?と自問自答しながら木曜セミナーを終了した。

今年は第42回の肺癌診断会である。熱海で6月30日から2泊3日。
興味ある研修医は夏休みを取ってでもいかれたし。

バレンタインデーに想う

2016年2月23日

2月14日はバレンタインデーである。
私は一時期、四国の某大学にいた。当時医局の隣の席は文化祭でMr.医大コンテストで優勝したこともあるA先生であった。確かにかっこよかった。バレンタインデーになると机上には誰からもらったのか舶来の高級チョコレートが山積みであった。ただし1つも自宅には持って帰ることをせず、すべてが甘党の私の胃袋に入った。おそらく奥方の嫉妬が怖くて持って帰らなかったのだろう。

対する私は事前に病棟ナースにロビー活動をしまくって義理チョコをもらうのがやっとであった。 その様子はまさに「ギブミーチョコレート!ジェネラルマッカサー!」と叫ぶ戦後のこどものようであった。

ジェネラルマッカサーは70年前の進駐軍GHQのマッカサー元帥である。そしてGHQとは General headquartersの略である。 ちなみに我が医局もGHQである。決して山口大学に進駐してきたという意味ではない。 その意味はGo home quicklyの略である。

教授秘書にいただいた’義務’チョコを食べて血糖値を上げて、今月から始まったポリクリの指導を頑張りつつも早く家路につこうと思う。

行く年来る年

2016年2月16日

医局忘年会があった。
10月から決めていた焼き肉である。なぜ焼き肉かは教授秘書の一言で決定。 教授秘書は一介の医局員より決定権があるのである。その決定のもとに末梢の医局員はお店を予約するのである。 わたしは食道胃ヘルニアと逆流性食道炎の持病のため食が細いのであるが、それを隠すためかっこよく「小食の美食家だから」と気取っているのだが、焼き肉は私には少し酷な食べ物である。 ただし肉は上等で美味だった。食べ過ぎて翌朝ものすごい胃もたれをした。やはり年には勝てない。 忘年会では教授自ら下っ端医局員にお酌をしていただいた。恐縮である。

そして新年になり仕事始めである。「松永和人とその仲間たち」も仕事始めである。 「医局員の生活が第一」とどこかの政党がいっていたようなことをモットーに始動するが 新年早々急患が押し寄せ、急患を乗せたドクターヘリまでやってきた。 世界の中心で愛を叫ぶばりに元気な仕事始めをしたが、数時間後にはヘリポートで患者の到着を待つ事態に。これでは世界の中心で愛を叫ぶ状態どころか、押し寄せる急患に事態は「セカオワ(世界の終わり)」である。

今年も大変な仕事始めである。一年、頑張ろう。

2ごうさん

2016年1月8日

年末差し迫った12月某日 山口済生会病院で研修中の末竹先生が医局に挨拶にやってきた。 「呼吸器内科を専門に勉強したい」とうれしい言葉を頂き4月から仲間に加わってもらえることになった。 わが呼吸器感染症内科にとって大畑先生に続く「入局2号さん」である。 そして恒例の聴診器プレゼント(写真)

さて以前の職場で医局長をしているY先生というのがいた。 艶男で、蟒蛇(うわばみ)であった。 要は職場では硬派のモテ男だが、お酒を飲むと抑制が外れる典型的ダメンズであった。 学位を取ったとき祝宴をしてあげたが私がプレゼントしたお祝いのスコッチ(ザ マッカラン)を泥酔して割ってしまうというていたらくぶり。 そんなY医局長に誰が言ったか「酒とオンナは2ごうまでにしておけよ」と。

ちなみに呼吸器感染症内科の新人枠は2号までではありませんので、興味のある方は気軽に医局を訪ねてください。

新入医局員

2015年12月17日

去る11月26日下関済生会で研修中の大畑先生が、わが呼吸器感染症内科にやってきた。
「カモがネギをしょってきた!」とばかりに教授室に閉じ込め出入り口を医局員でふさぎ「入局すると言うまではここからは出さない」と軟禁し入局してもらった。
というのは冗談で、「将来呼吸器内科を専門にやりたい」と抱負を持って挨拶に来てくれました。

記念すべき侵入医局員、いや新入医局員第一号である。
入局するとのことで呼吸器内科は聴診が命なので教授より自らが愛用のメーカーの聴診器プレゼントがありました。輸入品の聴診器が多い中、珍しく日本製の聴診器である。
聴診器は買うと高いのだがどういうわけか、よくあちらこちらに置き忘れるモノである。
教授からいただいた聴診器をなくさないためにも名札をつけるか、スペアにこっそり同じモノをもう一個買うことをおすすめします。

自分の入局といえば、思い起こせば15年前である。その後国内留学も含め3人の教授の指導を受けた。現在は4人目の教授の教室である。
そのうちのお一人の教授は、あまりに偉大な教授であったため、医局内の酸素の量は、教授が日々調節しているのではと思えるほどで、ご機嫌ななめの時は、居ながらにして息苦しさを覚えるほどであった。とりわけ、私が何かやらかした時の空気は、エベレストの八合目にいるかのようで、そのとき言われた内容についてはいまだに記憶が飛んでいる。

こうなると人間進化を遂げて、お互いが離れた部屋にいても気が抜けず、遠くの方で、教授室の扉の音がカタッと音がしただけで、軽く走り出す自分がいた。かくして私は、自然と肺活量が大きくなり、逃げ足の速い、アスリートと化した。その性分はいまでも抜けない。

さあ当日の大畑先生はというと、いささか息苦しそうな顔をしておりました。大畑先生にとってはすでに酸素濃度が薄く感じたようです。次第に逃げ足も速くなるかもしれません。

さて聴診器はまだ医局にたくさんストックがあります。
興味のある方はぜひ12月にある医局説明会に参加されてみてください。

「凡人、賢人、変人、」

2015年11月25日

左大腿骨転子部骨折して1ヶ月半。やっと退院できた。
整形外科の先生方に本当にお世話になりました。

今回入院してみて他の視点から院内の物事を観察できたのはよい経験でした。
山大病院は消灯のときいきなり電気が落ちるのでベッド上にいないときはいきなり真っ暗になり戸惑うことがありました。以前勤務した大学病院は消灯時に「消灯の時間です。おやすみなさい」と案内があったので最初はビックリしました。

そしてわが医局も傍観することもできました。
松永教授は日々是勉強で「このたびこんな論文を投稿しました」と医局員にお知らせメールがおくられてきたりして、電子カルテの入力はあんなに丁寧(=遅い)なのに、いったいいつ論文を仕上げる時間があるのだろうかと不思議になります。
平野准教授は行動的であり(=落ち着きがない)、仕事も素早く(=待てない性格である)、いろんなところに目が行き届き(=気が散りやすい?)賑やかにご自分の仕事をしておられる。

伊藤先生はどんなに忙しくともいつもニコニコ、黙々と仕事をこなしております。能ある鷹なので爪を隠しているのかもしれません。ただ上記二人に比べるととんがった特徴がありません。

かつて自民党総裁選の3人の候補者を「軍人、凡人、変人」とたとえた女性政治家がいましたが、我が医局の3人は「凡人、賢人、変人」だなと・・・。
誰が賢人で、誰が変人かは想像にお任せします。
そして私は「病人」であります。
医局の雰囲気を知りたい方は気軽に呼吸器内科医局を訪ねてきてください。

たかが専門医、されど専門医

2015年11月19日

山口大学に呼吸器感染症内科ができてはや3ヶ月。

全員が県外から落下傘で赴任したので山口の呼吸器診療になにができるかを探しながら日々診療しております。 その中で少し気になる文献があったので紹介します。 これは以前の職場でわたしの上司であった川山智隆先生や山口県で数少ない呼吸器内科専門医である山口赤十字病院の國近尚美先生らも調査に協力した論文です。 図に示すように気管支喘息死亡率と呼吸器専門医数、および慢性閉塞性肺疾患(COPD)死亡率と呼吸器専門医数との関係を都道府県別でみると、これらは逆相関を示し、病院当たりの呼吸器専門医数が少ないほど気管支喘息死亡率およびCOPD死亡率は上昇していることがわかります。またこの論文のなかでは呼吸器内科専任教授が不在の県においては、教授が在籍する都道府県に比べて呼吸器専門医数が少ない状況が明らかとなっています。これは以前の山口県に相当します。

来年度から専門医制度が大きく変革します。専門医制度の変更に困惑する若き医師が多いのは事実ですが、専門医制度は医療の質に大きく影響していることがわかります。 たかが専門医と思われるかもしれませんが、されど専門医なのです。 当科では専門医取得ができるよう準備中です。 ご不明な点があればお気軽に医局までお問い合わせください。

わが国における気管支喘息および慢性閉塞性肺疾患死亡率:呼吸器専門医数および呼吸器内科教授在籍との関係 山谷睦雄ら.日医雑誌141: 2003-2007, 2012.

助教の本領

2015年10月29日

山口大学に呼吸器感染症内科が平成27年8月1日に開設されました。
松永教授を含め4人での船出でした。9月30日までは順調な航行でした。 しかし一兵卒で働いていたわたくしが9月30日に帰宅途中歩道で転倒し左大腿骨転子部骨折し傷病兵となってしました。 仕事中の負傷なら名誉の負傷で2階級特進ですが、帰宅途中にコケて骨折では降格モノです。 しかし助教より下の肩書きはなく降格しようがないので現状維持。 コケたのは夜でしたが整形外科当直の岩永先生は丁寧に診察してくれました。 翌日には緊急で手術をして頂き、もう整形外科に足を向けて寝ることはできません。

というわけで入院療養中ですが前々から6年生に約束していた国試対策の補講の予定の日がやってきてしまいました。学務課からは受講希望者は8名程度と聞いていたので、「骨折で立てないけど、医局で個別指導すればいいか・・・」と呑気に考えていたのが間違いの始まりでした。

いざ当日。入院以来病衣で過ごしていたので私服がない。病衣で出向く一抹の羞恥心と、まぁ学生8人ならいいかという妙な安心感と相反する気持ちを抱えて食べる朝食は味がしない。(注;山大病院の病院食は意外とおいしい)

時間になり看護師さんに車いすで医局へ連れて行ってもらうことにする。 エレベーターを降りると普段は秘書さんを含め6人しかいないフロアが妙に騒々しい。 医局の廊下に数十人の6年生が部屋からあふれてる。 「やばい・・資料は10人分しか印刷してない。全員が入れる部屋がない・・・」背中に妙な汗がながれる。
とりあえず部屋を確保し講義資料を慌ててコピーするが人数が多すぎて間に合わない。畏れ多くも松永教授に6年生を別の部屋に案内してもらい、参加人数を数えてくださいとお願いすると数分後に教授から嬉々とした声「42人も来てるぞ」と連絡があり、教授はうれしくとも、こちらはさらに焦る。この瞬間に努力というものの限界、平常心を保つことの難しさを実感したのである。

とりあえず講義終了。学生の満足いく講義ができたかはわかりませんが 参加者が多かったので、怪我をおしてまで講義をした甲斐がありました。
これこそ2階級特進できなかったものの「助教の本領」であります。
学生さんは質問があればどうぞ医局まで遠慮なく訪ねてきてください。
今回受講した6年生に栄冠が輝くことを祈ります。

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